実は、ここでこのブログを始める遥か昔の17年前、私はアメーバブログで最初のブログを書き始めました。その時につけたタイトルが、この「Clear Layer」でした。いまでもこのアメブロは続けていますし、Instagramのアカウント名の一つとしても使っています。
Clear Layer──直訳すると「上澄み」です。濁った水を静かなところにしばらく置くと、上の方にだけ透き通ったきれいな層ができます。これが「上澄み=Clear Layer」です。
上澄みが象徴するもの
当時、この「上澄み」の状態が人間の世の中を象徴しているように思えました。きれいな上澄みの下にはドロドロとした不純物が堆積しており、少し揺らせば直ぐに濁ってしまう。私たちはそんな世界に生きているのではないかと。
例えば、私が好きなサッカーもその一つです。
選手同士の絆やサポーターとの一体感という美しい関係がある一方で、その下には利権や既得権、面子といったドロドロした現実があることは誰もが知っていると思います。
我那覇和樹選手の事件と「大人の対応」
ちょうど私がブログを書き始めた頃、我那覇和樹選手のドーピング冤罪事件が起きました。
この時のフロンターレの対応は「大人の対応」でした。ただし、それは決して「美しい対応」ではありませんでした。この事件の本質は、日本でドーピングの権威とされた人たちの大人の面子と、Jリーグが振り上げた拳の下ろしどころが見つからないという単純な事情にありました。処分を決定してしまった以上、「間違いでした」とは言えない。その状況からどう抜け出すか──それだけが問題になり、ドーピングの事実関係は二の次になってしまったのです。
その構造を見抜いていた武田社長をはじめとするフロンターレのフロントは、「我那覇選手がこのままプレーを続けられなくなるリスクを排除すること」を最優先にし、理不尽な要求であっても折れるところは折れ、立てるところは立てて事態を収めようとしました。
当初はチームの方針に従っていた我那覇選手も、自分が折れることで「間違った解釈が正しいものとして幅を利かせる」ことになると気づきます。怪我をした選手への治療すら満足にできない状況を招き、そして「子どもに胸を張って説明できない」という思いから、個人でスポーツ仲裁裁判所に提訴しました。
費用も個人負担、結果次第ではさらに重い処分を受けるリスクもありましたが、彼は決断します。この決断を受けて、サポーターは沖縄の銘菓「ちんすこう」と協力し、ちんすこう募金を立ち上げました。協力したのはフロンターレのサポーターだけでなく、他クラブのサポーターも数多くいました。
結果、我那覇選手は無罪。しかしJリーグは「我那覇選手がドーピング違反ではなかったことは認めるが、Jリーグの判断が間違っていたと指摘されたわけではない」と屁理屈をこね、選手への処分撤回やチームへの罰金返還は行いませんでした。
「正しいことは、正しかった」
この過程で私は、フロントの「誰が正しいかよりも選手生命を守る」という判断を十分理解しました。もし自分がフロントにいたとしても同じ判断をしただろうとも思いました。世の中、必ずしも正しいことが通るとは限らない──その現実も知っているからです。
しかし、我那覇選手の決断の前では、それは何の言い訳にもなりませんでした。それは彼の主張がCASに認められ、最終的な勝利を勝ち取ったからそうなったのではなく、シンプルに「正しいことは、正しかった」からです。
上澄みを否定しない生き方
この経験を通じて改めて思ったのは、汚い世界があるからといって、美しい部分まで否定する必要はないということです。
汚い現実を無視して美しい部分だけを見るのは未熟かもしれません。しかし、その逆に「ドロドロしたものがあるから美しいものなど存在しない」とすべてを切り捨てるのも、拗ねた子どもと同じです。
自分たちの住むこの世界は上澄みのようにはかなく、一瞬のきらめきにすぎないかもしれません。けれども、それが少しでも長く美しくあり続けるよう、自分たちが関わっていけばいい。そういう「きれいではかないもの」にこだわっていきたいと考え、このブログ名をつけました。
17年を経て、変わらぬスタンス
あれから17年。まさか最後の厄年が明けるこの年に、新しいブログを立ち上げるとは思ってもみませんでした。
この間、いろいろありました。「きれいごとや理想論だけでは世の中回らない」と言われることもありました。しかし私は、このスタンスを変えずに「きれいごと」や「理想論」を押し通してここまで来られたと思っています。
だからこそ、この新しいブログもタイトルは違いますが、基本スタンスは変わりません。この姿勢で見た世界を取り上げていきたいと思います。
おわりに
というわけですので、これからもぜひお立ち寄りください。
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