はじはじめに
AIが急速に普及するなかで、「AIがあれば解決できるのではないか」と期待される課題が次々に出てきています。医療、環境、エネルギー、都市計画──。どれも社会的に重要であり、AIの活用によって効率化や最適化が進むのは間違いありません。
しかし、こうした課題のなかには「厄介な問題(Wicked Problem)」と呼ばれるものが存在します。これは単純な数値計算やアルゴリズムでは答えが出ない種類の問題です。
厄介な問題とは
「厄介な問題」とは1970年代に提唱された概念で、特徴は以下の通りです。
- 明確な定義ができない:問題の境界があいまいで、立場によって定義が異なる。
- 解決が一度きり:シミュレーションのように「やり直し」が効かない。
- 利害関係者が多様:複数の要素が絡み合い、単純な因果関係がない。誰にとっての解決策かによって正解が変わる。
- 解決が新たな問題を生む:一つの解決策が副作用を生み、次の問題につながる。
典型例は、地球温暖化、貧困、都市計画、組織改革など。これらの問題は、ルールやゴールが不明瞭で、単純なアルゴリズムでは解くことができません。気候変動、移民政策、教育格差、都市交通といった複雑で多面的な課題です。
AIが果たせる役割
AI、特に現在の主流である機械学習や深層学習は、データに基づいたパターン認識と予測に長けています。これらは、ルールが明確なトイプロブレムを解く上で非常に強力なツールとなりますが、「厄介な問題」は、単なるデータからでは導き出せない、文脈、価値観、倫理観、そして人間特有の社会的な知恵を必要とします。AIは、これらの要素を「理解」し、それらを考慮に入れた上で、現実的な解決策を導き出すことは現時点では困難です。
- データ分析と洞察:人間には処理しきれない膨大な量のデータを、AIは高速かつ正確に分析できます。例えば、気候変動に関する多岐にわたる科学論文や、社会経済データなどを解析し、人間が気づかなかった新たな相関関係やパターンを発見する手助けをします。
- シミュレーションと予測:政策の変更や新しいシステムの導入が、社会にどのような影響を与えるかをシミュレーションすることで、事前にリスクを予測し、より良い選択肢を検討する材料を提供します。これにより、試行錯誤のコストを大幅に削減できます。
- 多様な意見の整理:都市計画のような問題では、住民、企業、行政など、多様なステークホルダーの意見が複雑に絡み合います。AIは、これらの膨大なテキストデータを整理し、対立点や共通点を自動的に抽出することで、議論の全体像を把握しやすくします。
こうした機能により、AIは厄介な問題を「単独で解決」することはできなくとも、問題解決プロセスにおける強力なツールとして機能します。これにより、人間がより良い意思決定をするための材料を提供し、意思決定を支援する羅針盤として機能します。
これに対して人間は以下の役割を担います。
- AIが提供した情報を元に、倫理観、価値観、社会的文脈といった、データだけでは把握できない要素を考慮に入れます。
- 最終的な判断を下し、責任を負います。
- 問題の定義そのものを再検討したり、新たな解決策を創造的に考案したりします。
このように、AIが得意とする「計算的知性」と、人間が持つ「社会的・創造的知性」を組み合わせることで、「厄介な問題」の解決に向けた道筋が開かれると考えられています。この協調的なアプローチは、AI技術の進化が現実社会の問題解決に貢献する最も現実的な方法だと言えるでしょう。
オランダでの失敗事例──生活保護AIチェック
オランダ・アムステルダム市では、生活保護の不正受給を検知するAIを導入しました。申請者データから「不正の可能性が高い」パターンを抽出し、人間の担当者が精査する仕組みでした。
しかし結果は失敗に終わります。
- バイアスの増幅:データに含まれる社会的・人種的偏りをAIが学習し、不当に特定層を疑う。
- 透明性の欠如:AIの結論に至る過程が説明できず、市民への説明責任を果たせなかった。
この事例は、AIを単なる効率化ツールとして導入しただけでは、問題解決どころか不平等を悪化させる可能性すらあることを示しました。
日本での応用事例──人間とAIの協調
一方、日本ではAIを「人間の意思決定を補助する道具」として導入する成功事例が出ています。
- 児童虐待対応(三重県):AIがリスクの高いケースを抽出し、最終判断は児童福祉司が行う。
- フレイル予防(長野県松本市):高齢者の電力使用データをAIが分析し、異常を検知。人間が直接介入するきっかけを提供。
- 市営住宅入居審査(神戸市):AIが申請書を仕分け、職員が対人業務に専念できる体制を実現。
これらはAIが得意とする「計算的知性」と、人間が担う「社会的・創造的知性」を組み合わせることで、成果を生んでいます。
日本への示唆
日本も少子高齢化やエネルギー問題といった「厄介な問題」に直面しています。AIに正解を委ねるのではなく、AIを材料に人間が議論し、納得解を探るプロセスが重要です。
AIは万能ではありません。しかし、適切に設計されれば、人間の意思決定を深める「補助線」として機能します。
結び
AIの可能性を信じつつ、その限界を自覚することは矛盾しません。むしろ限界を理解して使いこなすことが、これからの人間の役割です。
「厄介な問題」に取り組むというのは、結局のところ社会の意思決定のあり方を問うこと。AIはその対話を支える強力な道具であり、私たちはその道具をどう使うかで未来を形づくるのです。
本稿では「厄介な問題」とAIの関係を思想的に整理しました。
一方で、規制や産業政策という現実のビジネスの文脈では、各国がAIにどう向き合っているかも重要な視点です。
特にオランダと日本が採っているAI戦略の違いと共通点については、以下の記事で詳しく分析しています。
→ オランダと日本:AIをめぐる独自戦略
コメント